知識の増加を目的に勉強してはいけない
先日『インベスターZ』という漫画を読んだ。秘密裏に活動している投資部で中高生が学校運営の資産運用をしているというぶっとんだ設定の漫画。
金やビジネスの勉強ができ、学び多い漫画だったが、その中の一節に衝撃を覚えた。
「知識の増加を目的の勉強をしてはいけない」
という趣旨のセリフである。
そのときはあーいいこと書くなあくらいだったのが、しばらく読書メモのための再読中に気付いた。
「あれ、無意識に知識の増加が目的に変わっているかもしれない」と。
特に、読書においてはそれが顕著かもしれないな、と。
向上心が高く、それゆえ隙間時間を読書に費やす人は多いでしょう。
私も就活を控えた学生のころ、とにかく情報感度をあげようとTwitterとかでそれっぽい発言をしている人をフォローしてはツイートを食い入るように見て、それを繰り返していくうちに読書量と成功は相関しているな、ということには気づいた。
そこで、それまでほとんどしてこなかった読書をするようになった。
以降、社会人になってからも継続的に読書をしてきた背景がある。
本来、読書とはあるテーマについて何らかの課題意識があり、それについて自分で考えても分からないとき、助けが欲しいときに、金を払って先人・賢人・経験者の言葉に触れる営みである。
ところが、本を読んでいる自分にある種酔いしれ、魅かれるテーマの本を見ては買い、誘惑に負け読み終わってないのに他の本に浮気したことはないだろうか。
考えるよりも先に、答えを知ろうとしてはいないだろうか。
そんな折、前述のセリフを見てふと感じた。
本の中で生きているだけちゃうか、と。
現実の世界が見れていないんちゃうか、と。
読んでも何も血肉になっていないんちゃうか、と。
無駄ちゃうか、と。
きっとこう感じる人たちは、真面目に大学受験のときに勉強時間を確保してコツコツと勉強したタイプ。
天才に勝てないと悟り受験というゲームに勝つためにプレイ時間だけは負けないようにしたタイプ。
そして何らかの折に触れ、読書というゲームに変わる。
ビジネスの世界でも、特に本を読んでなさそうなのに活躍しているやつを嫉妬しつつ、コツコツ読書する向上心があるタイプ。
資格試験とかも好きなタイプ。
真面目なのである。
与えらえた課題に答えるのは得意だけど、自ら問いを立てて進んでいくのは苦手なタイプ。
人の人生を生きているタイプ。
図星の人もいるかもしれない。なぜなら私は完全にこのタイプの人間だったからである。
仕事でもプライベートでも、実は自分の目の前にいくらでも課題は転がっている。ところが読書の住人である人は分かっていながらもその現実から目を背ける。というより、本に頼る。自分で正面から解決せず、情報の海に飛び込む。溺れる。
結果、実は一番学びの多い現実から得られるものが少なくなってしまっている、というなんとも皮肉な人生を送っているタイプである。向上心があるのに、である。
これはなぜかと考えたときに、まずネット時代によって簡単に情報が入り簡単な問題ならだれでもすぐに解けるようになったことで、それに手を伸ばすのが楽、というのがひとつある。
しかし、より深刻な問題として、自分は他の人と違って読書をしているから普通の人が解けない問題でも解ける、というプライドがあるのではないか、と。
自分の方ができるはずや、だってこんなに本読んでるねんで、と。
あと、ネットで調べているんではなく、本で勉強してるねんぞ、というプライド。本を読むのは良いことだと誰もが言うので、それを盾に自分を守っている。甘えである。
正直最初にあのセリフを見たとき、そんなことはしていないと否定した。
否定したかった。
でも自分に正直になると、分かった。
本を読んでいるというより読まされている、と。
自分が尊敬する人が紹介する本を買えばその人のようになれるかもしれないと甘くも考えてしまう。
情報が集まり出し、尊敬する人が増え、ことあるごとに本が紹介され、自分でも興味のある分野ができ、気付いたら読書中毒になっていて、でも読んだ割に変わっていない自分がいる。
人の人生を生きているから、軸がないのである。
悪循環から抜け出すには、まず悪循環にいることを認識し、自分に正直なること。
そして、自分の人生を生きるために目の前の課題を自分の頭で考えること。
本との向き合い方を考えること。
読書をいったん止めても構わない。何も支障はない。
現実の世界に戻ってきて必死に頭を使おう。
結局それが一番勉強になる。
読書はあくまでそれを加速させるための武器。
順番を逆にしてはいけない。
自分の人生と他人の人生、どっちを生きたいですか。